会社設立の第一人者

一つの作品を通して効果的に世の中に出していって、作品としての価値が高まれば、マーケットの中で少しずつでもよいところに売れていき、さらに需要が広がっていく。
そうすると商品としての側面が強-なって、商品価値が上がります。
ギャラリーは文化活動や慈善事業をしているわけではなく、一収益事業には変わりありません。
だからこそ、前提となる「件品」としての価値が重要なのです。
僕はギャラリストとして、どちらかというとアーティスト側に立っています。
西村さんや白石さんのギャラリーで、アーティストたちとの交流も密にしてきましたし、それ以前に、学生時代には多-のアーティストの卵たちと身近に付き合ってきました。
こうした経験を通して、作品制作の大変さを僕なりに痛感しています。
誰も見たことのないものに価値を見出すギャラリストの仕事その大変な思いをしてつくられた作品を、どういうかたちで価値あるものにしていったらいいか。
それがギャラリストとして僕がいつも考えていることです。
時代をつくったギャラリストギャラリストを定義する上で欠かせない人物が、レオ・キヤステリです。
「ヨーロッパとアメリカの若い作家を発掘し、世の中に送り出したい」と、一九五七年にニューヨークで閲廊しました。
開廊当初は、ジャスパー・ジョーンズ、フランク・ステラといったアメリカ抽象表現主義。
六〇年代にはロバート・ラウシェンハーグのネオ・ダダに、ロイ・リキテンシュタインやアンディ・ウォーホルなどポップアート。
六〇年代後半にはドナルド・ジャッド、ダン・フレイヴァンといったミニマルアート。
続けてリチャード・セラ、ブルース・ナウマン、七〇年代にはコンセプチユアルアートを発表します。
はたして彼が時代をつくったのか、時代が彼を追っていたのか。
時代の変遷とともに新しい才能を次々に発掘し、精力的に発表したレオ・キヤステリの仕事は、そのまま、戦後アート史をなぞるに等しいほどです。
キヤステリに限らず、ギャラリス-にはアーティスト顔負けの個性派が揃っています。
ギャラリー名のほとんどが、個人名を冠しているのも特徴です。
ギャラリーとは単なるハコではなく、ギャラリストが全感覚を注いで発掘し、温めてきたアートを、アーティストと共演するライブステージです。
ギャラリストは裏方でも黒子でもなく、現代アートのパフォーマーの一人なのです。
誰も見たことのないものに価値を見出すギャラリストの仕事村上さんと奈良さんアーティストはどこにいる。村上隆の真似はするな、村上隆さんの真似はしてはいけません。
並のアーティストが下手に真似をしようとしたら危険きわまりない。
彼にしか越えられないリスクを負って活動していますから、そんなことをしたら大ケガしてしまうだけです。
村上さんは、僕が知り合ったアーティストの中でも、誰とも似ていません。
まったく稀有な存在です。
彼ほどの完壁主義で、しつこくて、妥協ができな-て、反骨精神が剥き出しの人はいません。
村上さんのことを「戦略的なアーティスト」と言う人がいますが、戦略といっても短期的なものではありません。
日本/西欧の歴史を考えた上での、死に物狂いの戦略なのです。
決して要領がいいわけでもない。
そもそもほかの人には、あんなに時間をかけ、コストと手間をかけ、犠牲を払っても妥協しないで作品をつくり続けることはできないあまのじゃくのよう。
本人は自分のことを「天邪鬼」と言いますが、傍から見ていて「もっと要領よく、つまり、世間的な「戦略的なアーティスト、村上隆像」と、僕が知っている「根っからの芸術家、村上さん」のイメージには大きなギャップがあります。
その説明のためにも、まずは村上さんとの出会いからお話ししましょう。
村上さんがまだ東京聾術大学の博士課程に在籍中だった、一九九〇年代の初めのことです。
きっかけは、「プレスを紹介してくださいよ」村上さんも僕も、東京聾術大学の学生でした。
村上さんは日本画科で、僕は芸術学科の出身です。
年齢は村上さんの方が僕より一つ上。
在学中はとりたてて接点もなく、話をするような間柄ではありませんでした。
重大は学生数が少ないですし、僕は留年して六年へ村上さんも博士課程まで一〇年以上在学しました。
きっとどこかで顔は合わせていたのでしょう。
僕が東高現代美術館で働いていたとき、展覧会を見に来た村上さんに声をかけられました。
「あ、重大の方ですよね」続けて、「プレスの人を紹介して-ださいよ」村上さんと奈良さんアーティストはどこにいる。プレスとは、記者や雑誌編集者、キュレーターや美術評論家といった、発言や評価がメディアに対して影響力のある人たちのことです。
いきなりのリクエストに多少面食らったものの、今から考えると、村上さんにとっては当然のことだったのでしょう。
村上さんは当時から、いかにメディアを利用して世の中に作品を出していくかということをつねに考えていました。
作品をつくるだけで終わりではないのです。
完成した作品を今度はどのようにプレゼンテーションしていくか、作品のイメージをどうやってブランディングしていくかを問題にしていたのです。
だから村上さんにとって「プレス」は重要だったわけです。
当時、村上さんはファックス通信というものをやっていました。
今で言うブログみたいなものです。
ファックスに自分が思っていること考えていることをびっしりと書き綴って二〇〜三〇人に送信するのです。
僕も送られてきた一人です。
このファックス通信からして、村上さんのメディア的側面がわかります。
こんなことをしているアーティストはほかにいないはずです。
やがて『ヒロポン』というフリーペーパーの発行も始めました。
美術界での人脈づくりも熱心でしたし、作品制作以外に、コミュニケーションツールを意識的に開拓していったのも、ほかのアーティストに見られない点でした。
最近の彼のメディアの一つ。
それらを手がかりに、ネットワークをつくっていくのです。
プレスの紹介をきっかけに、いろいろな場で会っては話すようになりました。
東高現代美術館で開催したレセプションパーティーにもよく来てくれました。ほかのギャラリーで出-わしては、帰りには飲みにいくようになっていました。
僕はまだ美術館の一職員でしたし、村上さんもデビュー前。
飲んでは、あれこれと過激なアート談義をしました。
「どうしたらジェフ・クーンズみたいになれるのだ。」「日本の現代アートがダメなのは、なぜだ。」「アートの世界サーキットで、スタート地点に立つためには何をすればいい。」ときには熟-なりすぎて、六本木の路上で殴り合いの喧嘩に発展しそうになったこともありました。
現代の日本社会を描く日本画家村上さんが東京聾大の日本画科で初めて博士号を取得した経歴は有名ですが、村上さん、村上さんと奈良さんアーティストはどこにいる。当時から、いわゆる一般的な花鳥風月を描く日本画の枠に収まるアーティストではありませんでした。
村上さんの作品は、日本の社会構造を暴くような作品です。
でも考えようによっては、それこそが「現代」の日本画とも言えるでしょう。
重大の卒業修了制作展で村上さんの作品を見た記憶は今も鮮烈です。
一九九一年のことです。
出展されたのは、プラモデルで有名な兵隊を使った作品などでした。
帰りに道端で、美術評論家の梶木野衣さんやキュレーターの南雄介さんと「すごくイよ!面白い作家だね」と、興奮して話したのを覚えています。

最も成功をおさめている会社設立の株が上昇しています。他の会社設立より圧倒的にオトクです。
会社設立業界の最新動向を紹介します。マルチに活用できる会社設立です。
会社設立のルーツに迫ります。本格仕様の会社設立です。